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人は何のために生きるのか

「帳面が合う」

私の両親は(特に昨年亡くなった母は)よく「帳面が合う」という表現を使っていました。ニュアンス的には自業自得・因果応報と同じような意味で、どちらかというとネガティブな意味合いで使うことが多い表現です。

例えば、日ごろから好き嫌いが多く運動もしない人が病気になったり、体調を崩したりすると「帳面が合った」ことになります。努力を怠り、結果苦労している人も「帳面が合って」います。だから日々努力を怠るな、という意味でよく使っていましたが、私は帳面が合うというのは「努力を怠るな」ということではないのではないかと思っていました。

というのも、帳面が合うのだから、努力を怠ったことで得た利得があるはずです。お金で考えると、先に使うか後に使うかの違いでしかありません。お金をずっと取っておけばそれだけお金の効力を先延ばしにしていざという時に備えることができるかもしれませんが、そのまま死んでしまって全くお金の効力を感じることができないまま終わるリスクもあります。一方、お金を先に使うことによって少なくとも使えずに死んでしまうという事は絶対になくなります。ただし、いざという時にお金が無くて苦労するリスクがあります。

先ほどの努力の話で行けば、努力という苦しい思いをしたにもかかわらず報われない可能性もあります。もっと他のことをしておけば楽しい経験ができたかもしれません。努力をしたがゆえに、あきらめがつかずもっと別の貴重な経験ができた時間を棒に振ってしまう可能性もあります。

努力をするなという話ではなく、帳面が合うのだから努力を怠る人と努力する人に差はない、努力をする人が偉いわけでも努力を怠る人がダメなわけでもないという事なのではないかと思います。

「あの人は○○だからダメなんだ」という話であっても帳面が合うのだから本人が後で苦労するか先に苦労するかの違いでしかないから別に他人がどうこう言う話でも無いことになります。

重要なのはどう努力しているのか

そもそも本当に人生トータルで帳面が合うのかという話はありますが、私は母の死を目の当たりにしたときに、死によってすべては精算されると感じたので確かに帳面は合うのだと思います。現世で快楽におぼれていた人は死によって快楽を取り上げられ、苦しい思いをして日々を必死に生きていた人はその苦しみから解放されます。悔いなく生きた人はすがすがしい気持ちで死を迎え、悔いが残る生き方をした人は後悔しながら死を迎えることになります。

努力した方がいいような気がするのは、最後はもやもやした気持ちで迎えるよりいい気持ちで迎えたいというだけなのではないかと思います。なので、努力するにしても、人に言われていやいややる努力は時間の使い方としては最悪です。いやいややった努力でいい気持ちにはなれません。単純に努力と言っても、自分の意志でやる努力が重要なのであって、努力なら何でもいいというわけではありません。「努力しないとダメだ!」と言われて仕方なく努力するのは間違いです。

ケースとして、いやいややらされていたけどそのうち楽しくなってきて…みたいな展開はあると思います。そういうケースの時はその人が自分の意志による努力に変換できたということで、やはり自分の意志でやる努力なのだと思います。