孫子を経営になぞらえるよくある話
孫子は浅野祐一さんという著者が書いた文庫本を読みましたが、原典を忠実に訳そうという心意気が感じられ面白かったです。孫子は様々な解説本が出ていますが、結局は原典を訳した本が一番面白いと思います。解説本は解説する人の主観が絶対に入ってしまいますし、その主観の部分がその本の付加価値でもあるので、どうしても孫子本人の言葉からズレてしまいます。そういう意味では訳の時点でズレは生じていますが、まだ解説本よりは少ないです。
孫子は経営のヒントになるというのは確かにその通りだと思います。ただそれを言ってしまえば、スポーツも経営のヒントになりますし、日々の生活の中でもヒントになることは起こります。取り立てて孫子に学べというわけではありませんが、単純に兵法書というのは読んでいてワクワクします。
孫子 勢篇 戦いは正を以て合い、奇を以て勝つ
この浅野祐一さんの孫子では、孫子の勢篇にある「戦いは正を以て合い、奇を以て勝つ」という項についてものすごく詳しく説明しています。著者はもうここだけ書ければよかったんじゃないかと思うほど正と奇について熱心に説明していて、私もこの項が一番好きになりました。
この言葉だけ見ると、何となく「勝つときは奇襲して」ぐらいの意味な気がしますが、正と奇というのは正攻法と奇襲みたいな単純な意味ではないというのが著者の主張です。その論拠を竹簡本という最も古い孫臏兵法(もう一つの孫子のような兵法書)を用いて説明してくれます。
孫子は正と奇について「月の満ち欠けのごとく、四季の移り変わりのごとく、五音階で無限の音楽が生み出せるように、正と奇が互いに循環し組み合わさり無限に終わることが無い」と言っています。この部分が単純に奇襲攻撃を推奨しているという解釈だと説明できず、奇とは何かというところにもう一段階深い意味があります。
奇襲攻撃は確かに奇ではありますが、孫子は奇というのは正の状態があって初めて生まれ、奇は発動した瞬間徐々に正に変わっていくため、そこから新たな奇を生み出す必要があるという点に言及しています。
これを経営に例えると、ライバルを出し抜く素晴らしいアイデアをひらめいたとします。これが奇になります。「良質なステーキは高価なもの、だから高い値段で提供する」というステーキ屋さんしかいない状態が正の状態で、そんな中にいきなりステーキが「良質なステーキなのに安い」というアイデアで急成長した時、このアイデアが正に対する奇になります。そしてその奇は、顕在化した瞬間から真似をする人が現れ始めます。もしくは徐々に消費者がそれを当たり前のことだと思い始めます。これが月の満ち欠けのように奇が正へと変わっていく段階です。そこで、新たな奇を生み出せなければ、奇はいつの間にか正に変わってしまい、放っておくと競争力を失って敗北してしまいます。
そして何が正なのか奇なのかというのは様々な組み合わせが考えられ、無限にパターンがあって終わりが無い、奇が正に変わった時、正もまた奇に変わっているというのが音楽のようだということになります。仮に「そこそこのステーキが安価に食べられる」という状態が正になった結果、「お金を出してでも、おいしいステーキが食べたい」というもともと正だったニーズが奇になって正統派のステーキ店が繁盛するとしたらこの状態が正が奇に変わっているということになります。
成功は一日で捨て去れ
ファーストリテイリングの柳井社長は「成功は一日で捨て去れ」という本を書いて安定志向に対する警鐘を鳴らしていますが、これも奇を以て成功した瞬間、奇は正へと移り変わりはじめるため、成功したことに甘んじていると奇の状況を新たに生みだせず、やがて奇が正になり競争優位を失うことになるという話です。
そう考えると、経営者というのは常に新たな奇を見出し続けなければならない忙しい仕事だと思います。