経済

近頃の若い人は…がずっと続く理由

論語と算盤の時代にも言われていた「近頃の若い人は…」

最近、夕食後に「論語と算盤」という渋沢栄一氏の著作を1章づつ読んでいます。昨日読んだ章では、昔に比べて若者に志や覇気がないという話題について書かれていました。

当時は1900年代の序盤でですが、近頃の若い人は昔に比べて…という話は私が若い頃にもよく言われていましたし、現在でもよく話として出てくるのではないかと思います。

それどころか、論語が書かれた孔子の時代にもあったようです。こうなってくると、近頃の若い人は決して昔に比べて劣っているなんて言うことは無く、勝手な思い込みに過ぎないということが分かります。渋沢氏もこの点については、「昔は高等教育を受けていたのは武家のみだったが、現在(1900年代序盤)は一般的な家庭の人にも幅広く高等教育が行き届いたため、昔と変わらず志も覇気もある人はいるが昔より割合が圧倒的に低く見えるようになった」といった見解を示していました。

しかし、私はそういう事でもないのではないかと思います。なにせ、孔子の時代にも似たような話が出てきているのです。そして我々が生きている時代にも似たような話があることを考えると、渋沢氏が言うようにたまたまその時代背景でそうなったという話では説明がつきません。

いい事だけ記憶に残るという人の習性

例えば、今の時代であれば「昔はスマホが無かったけど、今はみんなスマホを持っていてみんな外でも画面を見て画面をいじっている」みたいな話で、昔はもっと活発なコミュニケーションがとられていて、子供も元気に遊んでいたのに見たいな話はよく聞きます。

しかし、実際の所は我々の時代にはファミコンが流行っていて、誰かの家に集まってよくみんなでゲームをしていました。そしてその時も「昔はゲームなんてなかったから、みんな外で元気に遊んでいた」という話があったと思います。

しかし、おそらくその前にはテレビが普及し始め、テレビを持っている家にみんな集まってみんなでテレビを見ていた、みたいな時代があったのではないかと思います。もっと前には、「ベーゴマやめんこが無かった時代には野山を駆け回っていたのに、最近の子は外でも一か所でじっとして…」みたいに携帯ゲームを公園でやっている子供たちに対する不満と同じような不満を親が抱えていたのではないかと思います。

その結果、人類は徐々に衰退していっているのかというと相変わらず科学技術は発達し、私が子供の頃には想像もしなかったスマホが普及し、AIが話題になり、自動運転が実用段階までもう少しという時代がやってきています。

人は不満を他人が努力して解消して欲しい

最近の若者に対する不満というのは、「この世の中がよりよくなって欲しい」という願望の現れです。正確には「この世の中が、自分以外の誰かが頑張ることで自分にとってよりよくなって欲しい」という願望です。若者に不満が向けられるのは、「自分はもう十分に頑張って世の中を良くしようと貢献している。でも一向に良くならない。誰のせいだ?そうだ!最近の若者が…」といった思考の流れです。

「いやいや、現にこういう証拠がある」という反論は当然あると思います。先ほどのスマホの話もそうですし、身近にこういう若者がいた、昔はいなかった、という話は探せばたくさんあると思います。しかし、一方で現に科学技術は発達し、世の中は進歩しています。もしこれで明治時代の生活水準の方が高いという話であれば確かに若い人が世代を追うごとに衰退しているという明確な証拠になりますが、私が生きている時代だけを見ても子供時代に比べて世の中は格段に便利で快適になっています。この点については人類史上一貫して過去よりも今の方が便利で快適な生活を享受しています。

人は自分については「いつもできる限り精いっぱい頑張っている」と思いがちで、他人については「もっと頑張れるはずだ」と思いがちです。でも大抵の人は、その人なりに日々頑張って生きています。自分は何の努力をすることも無く、棚ぼた的に利益を享受したいというのは自然な欲望で、この自然な欲望が他人に厳しく自分に甘いものの見方を作ってしまいます。中でも自分よりも立場的に弱い若者に対してその想いを向けやすい、言葉として顕在化しやすいというのが、古来からある「最近の若い人は…」の真相だと思います。

人類は進歩している

面白いのは、最近は「最近の若い人は…」というタイトルで実は素晴らしいという流れの話に持っていったり、むしろ老人の方がひどいという話が出回ったりと、昔に比べて「最近の若い人は…」のバリエーションが豊富になっています。これは、人がマンネリを嫌う、人に注目してもらうために常に意外性を求めて創意工夫を繰り返すという、これもまた人本来の習性に基づいて変化しているという事の表れだと思います。

物語については、昔に比べて単純な勧善懲悪ストーリーではなくなり、悪にもちゃんと事情があるという物語が当たり前になってきました。こうして人は何か工夫をしたがる、自分なりに改善したがるという習性を本来備えており、結果として進歩していっているのだと思います。